上野焼の由来
上野焼は文禄・慶長の役に、釜山の城主、尊益の子尊階が、加藤清正公に従って帰化し、慶長七年(1602年)細川忠興公が、豊前小倉藩三十三万石に封ぜられた際、水質・釉薬の採集に最も適した当地において窯を興し、名を上野喜蔵高国と改めた。当時、茶道に造詣深い千利休から、直接教えを受け、茶禅一味の奥義をきわめた茶人大名細川忠興公(三斉)の指導により、三斉好みの格調高い作品が作られた。後、小笠原忠直公の時代になっても、藩窯として遠州好みの茶陶を多く作り、遠州七窯の一つに数えられています。
上野焼の特長
上野焼の食器類は古来より毒を消し中風に罹らないと伝えられ、酒器類は酒の風味をよくし飲食物が腐敗しにくいと伝えられています。又、他の陶器類に比較して作品が極めて軽いとされています。
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